THE RUNNING 走ること 経営すること

Running is the activity of moving and managing.

「ゼロ」を生んだ国とDIVA

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◇ グランドフロアは何階?

海外でエレベータに乗るとグランドフロアという地上と接しているフロアをGや0としているのをよく見かけます。日本では1ですね。インドはもちろん0でした。ゼロを発明した国と言われているだけに、見るたびに「おおっ」と喜んでいました。

なぜなら、小学生の頃のある出来事を思い出すからです。

それは、ある日父から突然「数を数えろ」と言われたことから始まりました。私が「イチ、ニ、サン・・・」と答えると、父は「数はゼロから始まるんだ」と言います。しかし私の頭の中は「???」が並ぶだけで、ピンときません。「なんでなんにもないゼロを数える必要があるの?」と問うと笑いながら「おまえは文系だな」と一言。理科が大好きな科学少年だった当時の私にとってはショックな一言で、それ以来「ゼロってなんだ?」と軽いトラウマとなりました。

そんなこともあり私にとって「ゼロ」は特別な数字です。

 

◇ インド生まれのゼロ

ゼロがなぜインドで生まれたのか。数学の歴史を特集した「Math and the rise of civilization」という番組によると、「神と祭り」が背景にあるそうです。インドは人口が多い国ですが、神様も同様で3億神?以上おられるそうです。なんとういう数でしょう。神道も多神教ですが八百万(やおよろず)神。桁が違います。

番組ではその神様を祭る日を決めるために天文学が発達し、それがインド数学発展の発端となったとしています。その結果、7世紀前半には地球が丸いことも、その円周もほぼ正確に計算していたそうです。誤差はわずか約100キロ!

その7世紀前半628年、当時インド天文学の中心地ウッジャイン(Ujjayan)で天文台長だったブラーマグプタがゼロの概念を著書に記し、それがアラビアを経てヨーロッパに伝わったとのことです。

ウッジャインは北緯23度、北回帰線のほぼ真上に位置していることから夏至の時太陽が真上を通ります。天文学の中心地となったのは太陽の周期を測定しやすい場所だったからです。

 

◇ 莫大な数を処理するために生まれたものがゼロの概念?

ゼロの発見によってわずか9種の数字とゼロを組み合わせることで膨大な数を簡単に表現することができるようになりました。また、方程式を解く際に同じ値を打ち消すことができるのもゼロという概念が存在するからです。ゼロによって、一見複雑に見える世の中を簡単に表現することができるようになり、さまざまな法則が発見されるようになりました。

このように、ゼロが一度発見されてからのインパクトは絶大なのですが、ゼロという概念を定義する必然性がなぜ生じたのかという点についてはよくわかりません。ゼロの発見以前にも計算上の「無」という概念は存在していたそうです。マイナスもありました。しかし、用途は借金の認識や、資産と負債を相殺したときの純資産を認識するための経済活動上の必然の範囲だったといいます。

なぜブラーマグプタは、無をゼロと表現したのでしょうか。なぜ、無に意味を見いだしたのでしょうか。宇宙の真理を追究するためなのでしょうか。すくなくとも目に見える世界を超えたなにかを見ようとしないかぎりその必然は生じません。

この辺を理解するためにはインドの歴史や文化をもっと勉強する必要がありそうです。

 

◇ サンスクリット語を語源にもつDIVA

話は変わりますが、DIVAという社名はフランスのジャン・ジャック・ベネックス監督の映画「DIVA」にインスパイアされて「経営情報の歌姫(女神)とならん」という思いを込めて命名しました。決定に際しては、将来グローバルに活動するようになっても世界中で意味が通じるような言葉がよいと調べたところラテン語を語源としていることがわかりこれで行こうと決めました。

その後少したってから、さらにサンスクリット語を語源としてるということがわかり、仏教を通して東洋にも通じると知り一層思いが強くなりました。

前回のインド訪問では、インド人との会話の中でなぜDIVAと命名したのか聞かれました。もちろん、彼らにとってはなぜサンスクリット語のディーバ(女神)なのかという素朴な質問です。

縁を感じずにはいられませんでした。

 

◇ わからないことが多い国

それにしてもわからないことだらけのインドです。なにか疑問を覚えても簡単に情報を入手できません。関連する書籍もあまり充実していません。それだけに、ますます興味を覚えてしまいます。これから、少しずつ彼の地の歴史や文化などをひもといていこうと考えています。

 

 

カオスの国、インクレディブル・インディア

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◇ 45度

インドへ行ってきました。出張前にはデリーの気温が50度を超えたというニュースもあり、とんでもないシーズンに初めてのインド出張を計画したものだと少し憂鬱な旅立ちでした。

到着した日のデリーの気温は幸い40度程度、42度あった次の訪問地ジャイプールからバンガロールに移動、飛行機のタラップから地上に降りた瞬間おもわず「涼しい」と言葉がでました。スマホで気温をチェックすると30度です。

バンガロールは緑豊かで魅力的な都市です。ただ、渋滞がひどいため市内であっても一日三件の訪問予定を入れるのがやっとです。

渋滞といっても、日本でイメージする整然とした渋滞ではありません。車線など意味が無い混沌とした渋滞です。逆進車も当たり前です。それでも前に進んでいくのは不思議なものです。雑踏の中を人が歩くように車も動いていきます。

面白いのはそれほどひどい渋滞であっても、だれもイライラしていません。注意喚起でクラクションを鳴らすことはしますが、人もオートバイも車も牛も、混じり合って流れていきます。不思議な感覚です。決して心地悪いものではありませんでした。

最後にデリーで45度の中を少し歩きました。さすがに30分程度で車に引き返しましたが高温と現地の雰囲気を少しだけ感じることができました。

 

◇ IT産業の心臓部

グーグルのスンダー・ピチャイ氏、マイクロソフトのサトヤ・ナデラ氏だけではなく、IT業界におけるインド人の影響力はIT業界の人であればだれもが知るところです。

昨年マイクロソフトのレドモンドにある本社(キャンパス)を訪問したときは、そこで働く半数程度がインド人に見えました。

欧米企業は早くから製品開発やサービスのアウトソーシング拠点をインドに設置して優秀な人材を獲得してきました。そういった一連のアクションの氷山の一角がインド人IT企業のトップの誕生であり、レドモンドの風景です。

今回の訪問では、その氷山の本体を見ることができました。日本の製造業の強さが大企業とともに栄える中小企業の層の厚さにあったように、珠玉の中堅中小の現地企業がたくさん存在しています。わかっているつもりでしたが、実際に触れてみることで層の厚さに少なからず衝撃を受けました。

 

◇ カオス

インドは好き嫌いが分れると聞いていましたが、私にとってはまた訪問したいと思える国となりました。もちろんほんの表層に触れただけですが、人為の及ばない自然な人の営みと人が造り上げてきた社会的な人の営みが混じり合って共存している環境は、なにか本質的なことを問いかけてきます。

IT産業が栄えているといっても、通信環境は劣悪です。高等教育を受けてグローバルビジネスの最先端にいる人もいれば、100年前となんら変わらない生活を送っている人々がいます。モダンな建物と一緒にバラックが建っています。

とても「人」とひとくくりにできない人々が混在し、さまざまな動物も一緒に生きています。まさにカオスの世界です。私たちは社会の進歩によって自然を含め様々な現実から分離されて生きています。それだけに、私たちの住む社会とそうでない社会が溶け合っている、つまり「カオス」を感じられる環境は貴重だ。そんなことを感じて帰ってきました。

 

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Photo: Qutub Minar, Delhi

 

 

つなぐ義務を果たす、DSのアップデート版を見て感じたこと

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◇ DivaSystemのアップデート版

先日、ディーバ社の主力製品である連結会計システムDivaSystemアップデート版のお披露目が社内でありました。会場は満席、立ち見での参加でした。

アップデート版ではありますが、1997年の初期バージョン以来開発スコープに上がっては先送りされていた機能のいくつかが実装されていました。処理速度と原則論を最優先とするコンセプトでデザインされたシステムゆえのこだわりから劣後していた機能です。

モノを見ていて直感的にイメージしたのは、かつてポルシェが車の走行性能上不要としてかたくなに実装してこなかった電動格納ミラーやハンドルのチルト機構を実装したときのことです。

たしかに走行性能に影響はありませんが、車を使うさまざまなシチュエーションでは役に立つ機能です。その後のポルシェの好調ぶりは周知の通り。

今回の開発にかかわったメンバーに話しを聞いたところ、サービス側のメンバーがリードしてお客様と一体になって開発した結果とのことでした。

 

◇ 肌感覚、現場感覚を養うこと

もちろん、当初よりよりお客様と開発に距離があったわけではありません。むしろ、今以上に一体となった開発を行っていました。現場ニーズ、つまりお客様のニーズを直接的に理解した上で、お客様のニーズとそれを実現するための制約条件のバランスをとった結果の取捨選択です。

ところが、お客様の数が増え、組織も以前と比べて大きくなるとどうしても現場のニーズを個別に取り上げて当事者意識をもって取捨選択することが難しくなります。情報量が格段に増え、直接そのニーズを感じることができなくなるとリアリティを失い、取捨選択のセンスが鈍ります。

経験則的には、取捨選択を行う際に外部の調査会社のフレームワークなどを使い始めたときはかなり危険です。もちろん、フレームワークを理解し活用することは大切ですが、答えは自らの現場感覚をもって独自に見いだす方があきらかによいものができます。

ビジョンは現実離れしていてもよいのですが、その実現は徹底的なリアリティ、現場感覚を伴うものでなければ役に立ちません。

 

◇ つなぐ義務を果たすとは

冒頭のDS開発にかかわったサービスと開発両方のメンバーの話から、いずれも当事者意識のようなものを強く感じることができました。そして、お客様と一体となった開発工程から強い「愉しさ」を体感しているようでした。

このような体感を大切にすることは、普段の仕事に対する姿勢から自然と文化として定着していってほしいものです。

しかし、こういった体感は「計算しないで仕事に臨む」姿勢が必要であり、業績の向上を追求する営利組織では実際には素直に受け継がれていくことが難しいことでもあります。

そのような中、今回のように現場感覚を大切にして、なによりも仕事のプロセスを愉しめたという話が現場から聞けたことは組織の成長を感じるとてもうれしい話でした。

結局のところ、「神は細部に宿る」という言葉のごとく、日々の小さなことの積み重ねの中に大切にしたいことをしっかり織り込んでいくことが最善の道なのでしょう。次世代につなぐ義務を果たすとは、そういうことなのかもしれません。

 

PS:写真は南アルプス甲斐駒方面。経ヶ岳バーティカルリミット参加の帰路にて。
 
 
 

 

 

 

負荷をかけたら休む、リカバリー力に注目!

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◇ オーバーワーク、オーバートレーニング

2月の東京マラソンでバーンアウトしてから、無理せず愉しむランへと切り替えています。その後のダメージが思いの外大きかったからです。

7月の富士登山競走だけは私の走力では五合目関門をクリアするだけでもかなり無理する必要があるのでやむなしとして、そこに向けた練習やレースも基本的にほどほどに押さえるようになりました。本来心身の健康のためにやっていることです。体調を崩しては本末転倒です。

考えさせられたのは自身のリカバリー力の低下です。ライフスタイルを変えずに昨年と同じペースで負荷をかけていると身体の回復が追いつかないのです。とはいっても、普通に過ごしていれば気がつかない程度の差です。東京マラソン後の体調不良がなければ気にもとめなかったでしょう。

これまでも、数年ごとにライフスタイルの見直しに迫られてきました。大抵はオーバーワークがきっかけでした。30代までは睡眠時間を削って時間を捻出するようなこともしていましたが、次第に身体がついて行かなくなり、段階的に量よりも質を重視したライフスタイルへシフトチェンジしてきました。今回もその一つです。

 

◇ 量は減らしても、質を下げないこと

今回のポイントは、リカバリーです。回復力と負荷のバランスに注目しています。負荷をかけないということではありません。「リカバリー可能な範囲での最大負荷をかける」ということがメインテーマです。

リカバリーという点に注目すると負荷そのものに手心を加える必要はありません。一方で負荷をかける時間とリカバリーのための時間のバランスに注意を払う必要があります。このバランスが難しいのです。

ヒントはBeyond TrainingやFast After 50などから得ました。たくさんのアスリートのパフォーマンスを長期にわたり検証した結果、負荷を落とすよりも量をコントロールするほうが加齢によるパフォーマンスの低下をゆるやかにできるとしています。その上で、筋肉量と体重を維持することが望ましいということです。

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◇ 回復力は良質な負荷によって維持することができる

本書は身体的なパフォーマンスについて書いたものですが、私たちが生きているということはすべて身体的なことの延長線上であるので一事が万事という印象を受けました。脳を使って行う思考活動も身体活動の一つです。脳への負荷とは、良質の刺激を効果的に与え続けることです。

トレーニングも同様ですが、良質の刺激とは同じことを繰り返しているようで、実際には違うという性格のものです。本を読むというルーティン行為がある人にとっては、同じ分野の本を繰り返し読むだけでは無く、異なる分野の本も読むというというようなことです。(おや、そういえば同じ映画を繰り返し見る頻度が高くなっているような。。)

身体的に考えると、歳をとるということは細胞の再生力が低下するということでしょう。ところが細胞の再生力はまだまだわからないことが多いようです。適切な刺激を与えれば一度失われた機能も回復するような事例も増えています。

しっかりと負荷をかける一方で、しっかりリカバリーするということで細胞の再生力の低下を押さえる効果があるということを念頭におき、その効果のほどを確かめてみようと思います。

ちなみに、リカバリーのためには必要な栄養素をとることも当然ですが、とった栄養素を身体のリカバリーの役立てるには肝臓に余計な負担を与えないほうがよいのは当たり前ですね。きわめて残念ですが、そろそろ禁断の酒量制限に着手する時が来たかもしれません。いやいや、私にとっての酒は良質な刺激の一つですから、断酒しなければならないという事態だけは避けたいものです。

 

おまけ

シラーはあまり飲まないのですが、買値で30ドル程度にもかかわらず、あまりにうまかったので忘れぬように。

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そもそも、公器としての会社とは

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◇ コーポレートガバナンス強化の目的は

コーポレートガバナンスに関する話題が増えました。上場企業に対するガバナンスコードの適用や、それにともなう社外役員を筆頭とした外部の発言力の向上も背景にあると思いますが、そもそもなぜ上場企業の経営者に対して外部からの牽制機能がこれほど重視されるのでしょうか。

長らく続く日本経済の低迷を脱却するために、国際的に見て稼ぐ力が弱い日本企業の経営者に外部からプレッシャーをかけて稼げる会社にしようということが背景です。

経営者が、職務に対する暴走と怠惰を長期にわたり補正して価値創造に集中するには、良質のフィードバックが得られる経営者の対するコーチ陣の確保と、自立的に経営者の暴走と怠惰が修正できない場合はそれを強制的に修正する力をもつ仕組が欠かせません。

ガバナンスの強化は、職務に忠実な経営者であれば自身を含むすべての関係者にとってプラスに働くはずです。ただし、経営者ならびにコーチ陣が会社をどのように位置づけるかによって、その結果として生じる社会の姿はかなり違ったものとなるでしょう。

  

◇ そもそも企業をどう位置づけるのか

企業とは営利を目的とした組織です。現在のグローバル資本主義はひたすら企業の収益向上を突き詰めるものです。大航海時代のスペインやポルトガルが新大陸などへ大船団を送り富の簒奪を行ったことや、帝国主義時代のイギリスなどの列強諸国が植民地政策を通してやはり世界中から富を集めたようなことが、現在も姿を変えながら続いているように思えてなりません。資本主義経済における企業とは、往時の船団やそこから生じた国策会社の延長線上にあります。

一方、日本の会社は、明治期に欧米と対等な関係を獲得するために国際法に準拠し欧米なみの法律を持つことが必要だったため、法的には同等の立て付けとなっていますが、それ以前より育まれてきた組織を社会の公器と位置づけ個人のためよりも社会のためにあるという共同組合的な感性をもって実際には経営されてきました。日本に100年以上続く会社が約26000社と、他国と比べて圧倒的に多く存在していることはその査証の一つと言えます。

 

◇ 公器が増えれば社会はよくなる

では、公器とはどのようなものなのでしょうか。私は、「良質な雇用を増やせる組織」であると考えています。会社は公器であるべきということは社会人になる前から持っていた思想ですが、公器が良質な雇用を増やすことできる組織であるという考えは時間をかけてたどり着いたものです。

終身雇用を言っているわけではありません。一つの会社が人の一生の成長機会を提供することが難しい時代です。よって、人の成長を促すための流動性は必要です。しかし、流動性の向上が不安定な雇用を増やすことになっては本末転倒です。

また、収益性を犠牲にしてもいけません。価値の創造を追求し、収益性の向上を伴う良質な雇用の増大を目指すというものです。

日々の経営判断において「カネ」を第一の置くのか、公器として「人」を第一に置くのかによってその結果から生まれる会社と社会はかなり異なるものとなるでしょう。おそらく、その違いは経済格差というもので現れると思います。

会社を公器と位置づけ、実業、つまり良質な雇用の増大を伴う事業の拡大を徹底するために経営者を集中させるためのガバナンスとして日本のコーポレートガバナンスが進歩することを願いつつ、自分のできることとして、日々、公器としての経営判断を徹底するように社内外のコーチ達と切磋琢磨しています。

 

 

 

連結会計、コーポレートガバナンスのための会計①

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先日、とある取材がありました。その取材は「連結会計とは」との問いから始まりました。そこでは、会計ビックバンとよばれた2000年以降、企業会計では当たり前となった連結会計を、今また改めて触れる時期であることを意識しながら話をしました。

 「コーポレートガバナンス」という話題が企業経営において大きく取り上げられるようになったことが背景です。2015年6月よりコーポレートガバナンスコードがすべての上場企業に適用されました。社会の経済において重要な要素である会社の発展のために、経営者が暴走することも怠けることも許しませんよという当たり前とも言える暗黙の了解をあえて明確にしたものです。

 現在のガバナンスの論点は社外役員などからの牽制機能に注目が集まっていますが、それは人間の健康管理で言えば定期的にお医者さんに健康状態を見てもらうようなものです。その場の見立てやアドバイスも重要ですが、健康は日常の自己管理でつくられるものですからそれだけでは不十分です。

 連結会計は会社が健康であるための自己管理ツールです。そして、そのツールは開示という情報を外部公開することによって本来の価値を発揮することができるという性格を持っています。

 このコーポレートガバナンスのための会計である連結会計について、実務ではなく大まかな概要をこれから数回にわけて触れてみたいと思います。初回は、生まれた背景についてです。

 

◇ 米国生まれの連結会計

現在の会計の基本をなす、人類最高の発明の一つとドイツの文豪ゲーテに言わしめた複式簿記の歴史は古く12世紀頃には存在していたようです。複式簿記は商売を営む上で必要なすべての活動をなにかとなにかの取引として記録するものです。

 すでに実学として存在していた複式簿記の考え方を社会の健全な発展に役立てようとイタリアの数学者ルカ・パチョーリが「スムマ」という著書にして出版したことから、複式簿記といえばパチョーリというイメージがあります。スムマはパチョーリが思ったほどは売れず、重要性は認められたものの、実社会においてはだれもが使いたくなるような技術では無かったそうです。

 複式簿記によって記録された取引は、財務諸表と呼ばれる複数種類の集計表に一定の期間ごとで集計されます。パチョーリの生きた大航海時代であれば、船団の航海ごとに成果を分け合うために集計すればすみましたが、継続的に事業活動を行う株式会社はそうはいきません。目的や強制力はそれぞれですが多くの会社は年や三ヶ月や月ごとに財務諸表を作成しています。

 これらの財務諸表を結合する連結財務諸表は19世紀後半に米国の鉄道会社によって報告されるようになりました。

 米国全土の鉄道が広がるに際してたくさんの鉄道会社が生まれました。鉄道はお互いがつながり同じサービスが提供されるほうが便利です。また、鉄道を敷くには大きな資本が必要ですから、ばらばらに経営したり資金調達するよりも、一緒にやったほうがよいわけです。

 ところが、当時は現在以上に州の権限が強かったので、それぞれのローカル法に準拠してつくられた会社を法的に吸収合併して一つの会社とするよりも、個々の会社をそのまま持ち株会社にぶらさげる形で資金調達と経営の統一を図るほうが合理的だったことからグループ会社型の経営統合が進みました。一度できあがった会社を一つに統合するのは簡単なことではありません。

 そこで、資金調達のための投資家に対する説明をしやすくするために、連結会計という異なる会社を結合する会計表現が生まれました。その後、20世紀に入り米国では本格的に連結会計が普及しますが、初期段階の普及の背景には情報を開示する企業側にとってメリットが大きかったことが背景にあります。社会的にも、為政者自体が今よりも暴走と怠惰を容認していた時代です。

 とはいえ、連結会計とは開示のために生まれた会計であるということが原点です。その意義は、開示という行為がもたらす意味がインターネット時代に入り大きく変わったことによって大きく変容することになります。(続く)

 

 

 

 

 

 

うぉー!を増やす! トランスジェネレーション!

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◇ ニュージェネレーション

四月になり、アバントグループにも新たに新卒のメンバーが20名やってきました。当社の正式な新卒採用は2003年4月入社組からですので、今年で14期ということになります。はじめは新卒といえども、歳の離れた兄弟程度の年齢差だったのでメンバーに対しても兄貴的な感覚でしたが、今ではすっかり親父モードです。

 

◇ イノベーションのジレンマ

ところで話は変わりますが、事業の継続発展においてイノベーションは欠かせません。私がイノベーションという言葉からまず思い出すのは、「イノベーションのジレンマ」(手元の日本語版は2000年1月発行)という本です。

私の勝手解釈では、著者のクレイトン・クリステンセンという人がイノベーションというものを、すでにあるものを改良していくイノベーション(持続的イノベーション)と、新たな技術やビジネスモデルを背景にすでに存在しているなにかを代替するイノベーション(破壊的イノベーション)に分類し、優良企業という勝ち組企業、つまり大きく成功したビジネスモデルを持つ企業が利益を最大化するための適切な投資活動を追求すると将来を担う破壊的イノベーションを生み出すことができずに衰退するということを言っていたものです。

イノベーションという言葉が中心にあるのですが、成熟企業が新たな成長を作り出す困難さを記したものでもあり、その後の優良企業によるベンチャー企業に対するM&Aブームを見てもイノベーションだけにとどまらずインベストメント、つまり企業の投資方針にも大きな影響を与えた一冊なのではないかと感じています。

 

◇ イノベーションとは新結合

イノベーションの訳語としては「技術革新」という言葉が一般できでしょうか。だとすると、この訳語がイノベーションの本来持つ意味を限定しているのかもしれません。私にとってのイノベーションは「新結合」です。

法学者で経済学者でもあった小室直樹さんの「資本主義のための革新」、これもイノベーションのジレンマを読んだ頃に熟読した本の一つですが、その中で20世紀前半の代表的経済学者の一人であるシュンペーターにかなり紙幅を割いていたのですが、そこでイノベーションを「新結合」と訳されていたことが背景であると記憶しています。小室さんの著書には当時かなり影響を受けました。

(なにぶんかなり昔の話を記憶ベースで書いているので、こちらは再確認します。)

イノベーションという言葉を読んだり、話したりするときの日本語が「技術革新」であるのと「新結合」であるのは受ける印象がかなり違いませんか?新結合という言葉が持つ語感は、これまであったものが新たに結びつくことで新たななにかが生まれるということです。

スティーブジョブスの有名なスピーチで触れていたConnecting the dotsと同じ感覚です。つまり、原子が結合して分子ができることも、異なる分野の事業が協業することで新たな事業をつくることも、異なる文化同士が出会って新たな文化ができることも、人と人が出会って新たな家族ができることも、すべて「新結合」という文脈では同じものであるということになります。

小室さんの著書のおかげで、当時より私はイノベーションを技術の革新ではなく、ばらばらであった点を結びつけて新たな価値を創造する力であると定義してきました。

 

◇ 新結合は「うぉー!」から生まれる?

さて、Connecting the dotsが価値を創造するとなると、そもそもdots、つまり点が複数必要です。であれば、たくさんの経験、点を増やそうということになりますが、それだけでは新結合が生まれません。それを結びつける力がより重要なのです。

たとえば、同じ講演や本を読んでも、そこから何かを得られる人と、そうではない人がいた場合、前者の方が結合力が強いということになります。なにかから意味を見いだす力は以前触れた「有意味感」と同様です。経験の多さもさることながら、限られた経験からも価値を見いだす力、創造力が欠かせません。

では、結合、コネクトする力はどこから生まれるのでしょうか。パッションというよりももっと根源的なデザイア(欲望)というところにあるように思います。異なる点を結合するのはかなりのエネルギーが必要です。実際問題、普通に生活できていればわざわざ使わなくてもよいエネルギーです。そのエネルギーを生み出すのは理屈ではなく、思わず声を出して走りたくなるような情動、「うぉー!」っていうなにかが必要です。

イノベーションにつながるデザイアとは、この「うぉー!」が個人だけにとどまらず人や技術などの点を結びつけるまで強くなるものでしょう。起業家の共通項を調査した資料(すいません、こちらも記憶ベースです)で、その一つに「理不尽に対する怒り」のようなことが書いてあったことが印象に残っているのですが、言い換えると周囲の共感、協力を得られる問題解決に対する純粋なリーダーシップというものですが、これなどイノべーションを産み出す「うぉー!」の典型例ですよね。

 

◇ トランスフォーメーションの限界

イノベーションを継続的に産み出すための組織変革に、組織のトランスフォーメーションという言葉を使う場合があります。組織を変革する、新たな環境に適応するように脱皮するというような文脈で利用します。

事業再編のように業務組織のあり方を見直したり、システムの導入によりITを活用して業務プロセスの無駄を減らしたり、ワークシェアリングや自宅勤務のように仕事の仕方を変えたり、女性や高齢者の積極活用など人員構成を見直したりその対象とする範囲は大変幅広いものです。

組織の脱皮、労働環境の改善はもちろん重要なことです。しかし、このトランスフォーメーションは持続的イノベーションと同様、事業の継続発展に欠かせない破壊的イノベーションを取り込むには不十分であると感じています。便利さや合理性の追求だけではイノベーション、新結合を産み出すだけのエネルギーをつくることができないからです。なにか、組織的情動が足らない感じがします。

企業ではM&Aはトランスフォーメーションを誘発する大きな環境変化をつくる一つの手段ですが、新結合につながる例は極めてまれであり、トランスフォーメーションの範囲内、つまり規模のメリットによる合理化や事業ポートフィリオの入れ替えにとどまることが大半という印象があります。結局のところ、内発的に「うぉー!」を産み出せるようにならないと、いずれ限界がくる。そう強い危機感を持っています。

 

◇ うぉー!を増やす、トランスジェネレーション

そんな危機感のもと、持続発展する企業を目指すのであれば、「トランスジェネレーション」という視点が欠かせないと考えるようになりました。

世代をつなぐ人間としての義務を果たすということです。

江戸時代のように、「そろそろ隠居でもして・・・」というのとは違って組織としての「うぉー!」の最大化に生き物としてのライフサイクルを意識しながら取り組むというものです。家族であれば普通に行われていることです。

前回のブログで、経済活動の変遷は単なる技術的な変化だけではなく、世代(ジェネレーション)のネイティブ性、つまりある一定の世代において同じような経験や情報を共有した集団の持つ価値観や行動習慣のインパクトも大きいということに触れましたが、社会的イノベーションとは、新たな世代が過去から引き継がれてきた技術を自分たちの価値観にアップデートしたものと見ることができるように思います。

言い換えると、イノベーションは、技術そのものの発明進歩によってのみではなく、新たな価値観を持つ世代との結合によって破壊力を持つということです。

となると、組織トランスフォーメーションにおいてイノベーションにとって重要なことは世代を超えた結合を新たな世代に向けた一方向のベクトルで加速させることであるということになります。

この世代を超えた結合を推進するには、世代間の点をつなぐことへ「うぉー!」となる人々が欠かせません。

イノベーションの議論においてテクノロジーの影響や、イノべーションを産み出す組織のあり方に関する話はたくさんありますが、もし、教科書どおりにやっても結果がでないのであれば、ともすれば組織の重しとなる人々が、「うぉー!」の最大化に「うぉー!」となっていないことに問題があるのかもしれません。

「うぉー!」っていうのは、自分のデザイアの延長線上からしか生まれません。それができなければ本当にご隠居様です。

なんだか、叫んでばかりでなにを書いているのか訳わからなくなってきましたが、新卒の新たなメンバーを前にして、トランスジェネレーションへの「うぉー!」の体温が上がりましたという話です。