THE RUNNING 走ること 経営すること

Running is the activity of moving and managing.

技術は文化の上で活きる、和魂洋才のススメ

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先日、神主の岡本彰夫さんのお話を伺う機会がありました。2013年まで春日大社の権宮司を務められた方です。春日大社は768年の創設、1200年以上にわたり人々が大切に受け継いできた有形無形の財産の一つ形です。日本文化のエッセンスの一つともいえるでしょう。

 

私は子供の頃から日本の文化が好きでした。歴史に興味持ったのは身近に縄文土器が当たり前のように転がっていたこともあったかもしれません。中学まで茨城県の古河というところで育ったのですが、自宅から歩いて行ける畑や田んぼを歩いていると、素焼きの土器の破片がごろごろ転がっていました。

古河市観光協会 こがナビ (縄文時代はこの辺まで海が入っていたようです)

 

専門家の鑑定を受けたわけではないので、今となっては、真偽のほどはわかりませんが、一つや二つという量ではなく、バケツ一杯程度は自宅の庭にあったと記憶しています。量からするとおそらく最近つくられたものがほとんどだったのかもしれません。それでも、中には縄文時代を空想するに足るだけの魅力ある破片もありました。

 

土器の破片を集めるだけでは面白くありません。どの時代のものなのか、どんな用途でどんな人々がつかっていたのか、そういったことを空想することが愉しく、日本史の本を買ってもらって調べていました。そうしているうちに、自ずと古事記や日本書紀へ、そして神話の世界から日本の歴史、文化へと次第に関心が広がり誇りをもつようになりました。

 

一方、社会人としての第一歩が欧米系の文化を持つ会社であったことから、実際の経営制度、システムの体験は米国式によるものでした。強い個人を前提とし、会社は財務的成果を最大にするための機能であるような経営です。

 

この考えは、福沢諭吉が残した「一身独立して一国独立する」という考え方にも通じると、違和感なく受け入れていました。一身独立して一国独立するという考えは今でも私にとっては行動の基本を為しています。

 

ところが、強い個人を前提とする経営というあたりが実際に経営者となってからの経験からもどうもかみ合わないというか、システムで言うと普段Windowsで使っているMS-EXCELを、MacOS使うときのような違和感を覚え続けてきました。

 

その違和感を解消しようと、改めて日本の文化というものを理解することに関心を持つようになりました。どれほど西洋的な経営技術を学ぼうとも、心は日本で生まれ育った自分にとって日本にある文化の影響を濃厚に反映したものであり、その理解なくしては技術もうまく使えないという考えです。これが岡本さんのお話を伺うことへの動機の一つでもありました。

 

会社の健康が心技体、つまり心としての経営哲学、経営技術や顧客に対する貢献価値の源としての技術、そして人・モノ・カネという事業資産である体がバランスよく機能している状態であると考えると、日本文化というものを三つ子の魂のごとくOSとして持つ会社は、その会社がたとえフランス国籍であれ、アメリカ国籍であっても和魂洋才を追求するほうが健康であることができると考えています。

 

岡本さんのお話は、日本文化の博覧会です。浄瑠璃から仏教、季節ごとの節目からしめ縄の意味、次から次へとまさに生きた人格を通したインスピレーションのシャワーを浴びているかのごとくでした。

 

そんな岡本さんのお話の中の一つに「健全なる肉体に健全なる精神が宿る」というのは西洋の考えである。東洋はその逆で「魂を健全にすれば自ずと肉体も健全になる」というお話がありました。

 

「ん?」そこからしばらく思考が混沌としました。

 

そして、「ん!」と納得しました。十数年前、少し鬱状態にあったとき、そのメンタルの回復手段を試行錯誤した結果、山によく登るようになりました。その効果はそれまで試したあらゆる手段と違い、少しずつではありましたが、確実にメンタルの回復をサポートするものでした。真因は別にあるので、その解決なくして本格的な回復は困難なことはわかっていたのですが、それでも登山というリフレッシュ方法がなければもっとひどい状態に陥っていたかもしれません。

 

そんな体験から、メンタルを整えるにはまず身体からということで腹落ちしていたのですが、それを私は「健全なる肉体に健全なる精神が宿る」であると考えていました。しかし、岡本さんのお話を伺って、私がやっていることは、身体を強くすることが目的ではなく、メンタルを整え、鍛えるための身体に負荷をかけているだけであり、「魂を健全にすれば自ずと肉体も健全になる」の文脈に沿ったものであることに気づきました。おそらく、単純に健康な身体を求めていたら、心の与える影響はより限定的だったと思います。

 

お話にはこんな件(くだり)もありました。「修験者をはじめ、修行をしている人は自分のためではなく、なにか、もしくは誰かのために修行している。」つまり、心、メンタルをよくするには、利他というスタンスがはじめの一歩である。その利他の精神を強くするためには、修行という肉体の鍛錬の欠かせないが、利他でないと修行が続かないということです。なるほど。確かに自分の記録だけを目的に走っているときは案外よい結果がでない。時にはリタイヤすらありますが、誰かのため、何かのためという自分以外への願いを持つとよりよい結果につながっているというのは体験的事実です。

 

では、洋魂というものがあるならば、それは利己であるかというとその限りではありません。私は子供の頃からカトリックの日曜学校にも通っていたので神父さんとの交流も当たり前のようにありましたが、その教えは利他そのものでした。ただ、私にとっては文化としてのキリスト教が日常になかったために、そこで感じた利他力を消化しきれず、生活の一部として取り込むことはできませんでした。

 

おそらく西洋的という「健全なる肉体」の話も、本来的にはキリスト教、なかでも現代の資本主義の基本をなすと考えられているプロテスタンティズムの文化的理解がないと間違った運用となってしまうかもしれません。むしろ、その文化の中にいない以上は本質的な理解はかなり困難と考えて理解を進めるほうがよいのかもしれません。

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なんとなく、東洋西洋をはじめ、資本主義や社会主義、キリスト教やイスラムの話など様々な対立概念はあくまで文化的ものであり、人間として利他が共通善であるということはゲーテのファウストあたりを読んだ頃から右脳(直感)的に個人的な仮説として結論づけていたのですが、ポール・J・ザックの「経済は競争では繁栄しない」はそれを左脳(論理)的に納得させるものでした。その講演はTEDでも人気です。

 

www.ted.com

 

ポール・ザックは、人類という種族が現在にいたるまで繁栄することができたのは、他者への共感力と利他性にあるとオキシトシンというホルモン分泌状況の調査研究を背景として主張しています。この考えにインスパイアーされるとすると、共感力、利他性という二つの要素を促すことができた文化のみが現在でも生き残っていると考えることもできます。

 

となると、西洋とか東洋ということではなく、それぞれが開発した技術を、自分たちにあった利他を促す環境としての文化をしっかり理解して活用することができた人、組織、国、地域というものがこれからの世界をリードしていくことになるのかもしれません。

 

技術は文化の上で活きる、他文化で産み出された技術を間違った使い方で使うこととならぬようにも、もっと和魂を磨きたい、岡本さんからそんなインスピレーションを頂戴いたしました。