THE RUNNING 走ること 経営すること

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アダム・スミスと自他一如

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18時間かけてやってきたエディンバラ、滞在時間は17時間。初めての街、朝ラン中にアダム・スミスの銅像に遭遇。富国論、「神の見えざる手」だ。

 

自由な市場で、個人がそれぞれの利益のためにビジネスを追求すると、社会が豊かになる。そんなところだろうか。

 

東洋風に解釈すると自他一如である。この思想の本質は、長期の視点で自己の利を考えること。自ずと、他者や社会の役に立つことを考え行動出来るようになる。

 

短期的な利に振り回されず、長期で豊かな生き方を追求すること。ここでの投資家にも、そんな考え方を感じる人が少なくない。

「言語の本質」を読んで意志を持つAIについて考えてみた

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「言語の本質~ことばはどう生まれ、進化したか~」(今井むつみ・秋田喜美)を読んだ。

 

中学生時代、カール・セーガンの「COSMOS」に夢中になった。宇宙というものを、歴史や化学、天文学、多様な角度から映像化した番組はビデオが擦り切れるまでなんども見た。ちょっとした宇宙の旅だった。

 

本書は認知科学者と言語学者による「言語」の旅である。この旅は「オノマトペ」から始まる。

 

「オノマトペ」、このフランス語の示す意味は擬音語である。しかし、日本語ではむしろ、擬態語や擬情語が多い。身体的に感じる感覚を表す言葉のことを指しているそうだ。いわゆる赤ちゃん言葉である。(本書に紹介されていたYouTube「ゆる言語ラジオが面白すぎてヤバかった)

youtu.be

 

人間が言語を学習する過程で、このオノマトペの存在が重要な役割を果たしているという。身体的な感覚と音感を結びつけていくことを繰り返すことで、言葉としての認知の土台をつくっていくらしい。

 

なるほど。私たちは普段、何の気なしに使い慣れている言葉をつかっている。学習を重ねて、いろんな言葉を覚え、経験を増やしていくほど身体的共感とはかけ離れた言葉を駆使している。

 

例えば、「日本のDXって、AIやBIを使ったSIなんだよね」というフレーズ。IT業界にいる人間であれば、これでなんとなく会話はできるが、実際に言いたいことが伝わっているかといえばかなり怪しい。ましてや、業界外の人にとってはただの怪文書だろう。

 

世の中には、こんな怪文書があふれている。それでも、想像力を膨らませて、こんなことかなと理解を試みて生きている。

 

本書では、こういった、未知なものをすでに得ている知識からつじつまを合わせて認知していく「アブダクション推論」が人類の特徴的な学習方法であると指摘していた。

 

幼児期の言語習得は、この推論をひたすら繰り返しているらしい。ただし、想像だけでは現実との折り合いは早晩破綻する。よって、体験を通して、推論の精度を向上していく。この力が人間の言語の発達、ひいては社会の発展のトリガーではないかとも言っている。

 

私は、人間は「思い込む力」としての「意志」がほかの生き物との決定的な違いであると考えている。これまで、この思い込む力がどこから生じているのかについては乱暴にDNAだろうと片づけていたが、本書を読んで言語の学習プロセスがかなり重要な役割を担っているのではないかと推論(笑)するようになった。

 

この数か月、対話型AIと会話を重ね続けるにつれ、「人間との決定的な違いは意志の有無だな。」と感じるようになった。今のところ、AIの意志を感じるようなリアクションに出会ったことがないからだ。しかし、対話型のAIはアブダクション推論と思えるような認知を示すことは少なくない。何かを質問した時に、的外れな答えを返してくることこそ推論の結果であり、その後の対話による補正活動が学習である。

 

もし、アブダクション推論が「意志」を生み出す要因だとすると、いずれAIも意志を持つかもしれない。「2001年宇宙の旅」に登場するAI、HAL9000は自らに課せられたミッションを果たす「意志」を持ったAIとして搭乗員である人間に反乱する様子が描かれているが、実際に対話型AIを使いながら「まぁ、現実にはそんなことにはならんだろうなぁ」と考えていたのだが。

 

本書を読むまでは。。。

「熟達論」を読んで、クオリティ・オブ・ライフを考えてみた

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「熟達論-人はいつまでも学び、成長できる-」(為末大)を読んだ。

私はオタクが大好きだ。なにかを深く突き詰めていく人に強く惹かれる。著者は間違いなく超一流のオタクである。

 

本書には、多様な読み方がある。世界のトップアスリートであった著者の体験に基づく人間成長の解説書という側面もあれば、リアルなアスリートの葛藤と思考に触れる物語としても読める。読み進めるにつれ、いつのまにか後者の視点で読んでいた。

 

世界に通用するパフォーマンスを目指して、いくつも壁にぶつかり、その都度アプローチを変えて自己変容していく物語である。しかし、その熟達への道は、特定の競技への熟達というより、人間としての生き方の熟達である。

 

人間としての熟達を考えると、昨日戸隠のトレイルを走ってきたこともあり、山伏の修行のための修験の道を思い出す。古来、人間としての熟達のためにたくさんの人々が歩いてきた古道を走ると不思議と清々しい気持ちになる。

 

本書の中に「熟達」の喜びとは「身体を通じて(自分の扱い方が:注:勝手解釈)わかっていくことにある」とあった。修験道とも通じる。

 

なお、本書では、「熟達に至っても人生が劇的に変わるわけではない。」と言い切っている。ただし、「空」と著者が表現する、いわゆるゾーンに入る体験をすると、その感覚が身体的にわかるそうだ。その感覚を活かす生活とは、「今に生きる」である。

 

勝手な解釈だが、その感覚を人生に活かせば、人生の品質、つまりクオリティ・オブ・ライフが向上すると理解した。なにかに勝つとか、社会的に成功するという相対的なものとは一味違う。

 

著者が現在の私の年齢となる12年後、その時の最新作を読んでみたいと思った。

 

ご馳走様!

「信長の正体」を読んで「歴史学者の正体」を考えてみた

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「信長の正体」(本郷和人)を読んだ。

うーん、深い!

 

先日、著者の本郷さんから頂いた本である。東京大学の史料編纂所教授の著者はとにかく知識量が半端ない。生きる「大日本史」といっても言い過ぎではない。日本歴史上の人物を知り尽くした本郷さんが一番面白いと思う人物が誰なのか、素朴な疑問をぶつけたところ「織田信長」と即答だった。

 

「あっ、そうなんですか?」どれほど珍しい人が出てくるかとの期待と反して、王道中の王道に、驚いた。その時手渡されたものである。

 

小学生の頃、日本史が大好きだった。当時住んでいた茨城県の古河市というところは、縄文土器のかけらが近所の田んぼや畑のあぜ道に転がっていた。変わった文様を持つ土のかけらに興味をそそられ、自宅の庭に小さな土器塚をつくっていた。それが縄文土器であることを担任の先生に教えてもらい、そこから歴史への興味が生まれた。

 

最初に読んだのは、小学館から出ていた日本の歴史だったように思う。まだ漫画化される前だったが、縄文時代から近現代まで一挙に読んだ。そうやって、日本の歴史の面白さにハマったことを覚えている。

 

高校生ぐらいになると、歴史へのアクセスは小説を通したものとなった。代表的な作家は司馬遼太郎である。20代後半まで、小説のみならず、「風塵抄」や「この国のかたち」といった随筆まで、片っ端から読んだ。それまで元素記号のように無機質だった歴史上の人物が小説の中で生き生きと活躍し始めると、いつのまにかそれが本当のことのように錯覚するようになっていた。俗に司馬史観と言われる歴史認識である。

 

その後、歴史小説作家の池宮彰一郎氏の話を直接聞く機会があった。信長を題材にしている「本能寺」を出版されたころだ。「歴史小説家の野望は、歴史上の人物のイメージを一新することである」そんな一言が今でも強く記憶に残っている。その時、自分の歴史認識がかなり司馬史観によっていることを自覚し、すべての歴史文学を、書いた作者のキャラクターや思想の代弁として理解するようになった。

 

さて、本書「信長の正体」であるが、本物の歴史書だった。科学としての歴史学のアプローチで、歴史がつくった人間としての織田信長を紐解いていた。

ここから先は個人的な勝手解釈だが、織田信長という存在は統一国家としての日本のコンセプトをつくった唯一無二のイノベーターだったようだ。今でこそ、日本という国をなんの疑問ももたず概念も実態も受け入れているが、信長以前に、日本を統一国家にするという着想を持ち、実際に行動を起こした人はいないらしい。

 

考えてみれば、今の世界を統一するなんてビジョンをもって動いている人はいない。なんとかファーストと言って、基本的に自分のテリトリーを守るか、理想論だけを掲げて行動を起こさないか、そのどちらかだ。もし、本気で世界統一するために行動を起こす人がいたとしたら、常識的には恐怖しかない。チンギス・ハンだ。

 

戦国時代の武田信玄や上杉謙信も自国ファーストである中、信長だけが天下布武という日本統一を目指して行動したという点で全く異質な存在なのである。ということなのだろう。様々なメディアで数多の信長像が存在し、キャラクターとしての評価をしてしまう私のような人間とはまったく異なる見方である。人物としての面白さが問題なのではなく、歴史に与えたインパクトがすべてだ。本郷さんがなぜ「信長が断然おもしろい」と即答したのか、少しわかった気がする。

 

本郷さんの歴史学に対する愛とイノベーションへの挑戦にあふれた一冊だった。著者自ら「会心の一冊」と言うだけに、本当の歴史学に触れられる価値のある一冊である。

ご馳走様!

年をとるのは大変だ!:「人生後半の戦略書」と「人生の五計」

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「From Strength to Strength」『人生後半の戦略書』(Arthur C. Brooks)を読んだ。

夜行の機内で「死んだほうがましだなんて言わないで」と年配の女性がだれかに小さな声で囁いている、そんな話を偶然聞いたところから始まる。人生に後悔が多いのだろうか、想像は膨らむ。ところが、目的地で目にしたのは米国の国民的英雄が颯爽と降りていく姿。会話の内容と外形的な態度のギャップ(認知的不協和)に強い問題意識を持ったという。

 

社会科学者でもある著者はこの体験をきっかけに、何かに没頭して生きてきた人が年齢を重ねても幸せを感じる生き方を学術的に探究することになる。そのエッセンスが本書につづられている。人生のフェーズによって自身がもっとも活き活きとできるよう、価値観と行動を変容させようというものである。社会科学から脳科学、哲学、神学、歴史、伝記や取材と膨大な情報に基づいた文章は、さすがに読み応えがある。しかし、そのエッセンスは古来不変なものであった。

 

例えば、郷学の安岡正篤の著書に「人生の五計」がある。宋の官吏、朱新仲の教訓である。人生を「生計」「身計」「家計」「老計」「死計」という五つの視点でとらえ、それぞれの指針を整理して行動するというものだ。生計とは、いかに生きるべきかという本質的な問い。身計とはいかに社会に役立つか。家計とは家庭の治め方。老計は、いかに年をとるか。そして死計、いかに死すべきか。死生一如の死生観とされている。

 

この五計、現在の私にとって最大の関心所は「老計」である。昔の同級生や年の近い友人、特にお互いに弱音を吐ける、愚痴を言い合えるような間柄であると、数年前からこの「老計」に関する話題ばかりである。心身の変化は確実に感じているのに、その現実というか、変化を受け入れられない。どうしてもジタバタする話になる。

 

しかし、「人生後半の戦略書」のような本を読むと、ある程度処方箋に関するノウハウは社会的に蓄積されており、それにもかかわらず私たちは個人的に思考のループにはまっているだけのように感じる。

 

自身を振り返ってみても、人生は環境適応の日々である。適応のむつかしさや変化率に違いはあれど、現状を追認するのではなく、主体的に変化に適応する行動に集中することで日々はより充実する。一番まずいのは、思考のループにはまり行動しないことだ、とクリアにわかっている。にもかかわらずなかなか行動が出来ないとするなら、これは「老衰」である。

 

「老計」とは、老衰ではなく、老熟するためのものだ。そして、年をとることを楽しく、意義のあるものとするための行動方針である。その基礎には建設的な諦め「悟り」があり、若い時にはわからなかった、人生の妙味を知るだけの経験があるようだ。これを「人生後半の戦略書」では「結晶性知能」と呼び、年齢を重ねてなお成長できる能力としている。以前触れた、ロバート・キーガンの「自己変容型知性」も同種のものだろう。いずれにしても、老熟を楽しみ、それを他者に還元していくことが自然な生き方なのだろう。

 

結局のところ、変化に適応するための行動に集中することに尽きる。しかし、その行動はこれまでの感覚ではかなり地味であり、つまらないことの積み重ねとなる。まだまだ人生の妙味を理解するに至っていないということか。まだまだ、である。

夏の読書感想文「自律神経の科学」

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「自律神経の科学」(ブルーバックス/鈴木郁子)が面白かった。

長い間、心身の不調をなんとなく自律神経の問題と捉えていたのだが、その自律神経というものを初めて(なんとなく)理解することが出来た。

具体的には、手足のしびれや内臓の不調、蕁麻疹が仕事の負荷が高い時や季節の変わり目にひどくなる傾向がある。 対処として、良質な運動と食事と睡眠が基本でありつつも、足らずを補うためにやっている鍼灸と整腸剤服用は明らかに有効と感じていた。その理由を教えてくれるものだった。

内容は本書に譲るが、鍼灸のツボが実際に自律神経に直接働きかける肌のポイントであること、そして腸には独自の自律神経があり脳の健康と相関していること。このあたりは経験則を裏付け、今後さらに深堀してみたいと考えるきっかけとなった。

「科学をあなたのポケットに」をかかげて1963年にスタートしたブルーバックスシリーズ、中学生時代の愛読書の一つだったが、読み応えのある本が少なくない。