THE RUNNING 走ること 経営すること

Running is the activity of moving and managing.

CEOがCFO組織に求める、気象予報士のような役割

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先週関東甲信地方に大雪警報が発出された。首都高をはじめ、各種交通機関などで予防的通行止めなどの処置がとられた。

幸い大事は発生しなかったようだが、2018年1月の大雪で発生した山手トンネルの大渋滞の経験を生かした予防処置と聞いている。

一見大げさに見える予防処置であるが、万が一問題が発生した事後対応と比べると格段に負担が小さい。

企業経営も同様である。

危機に瀕した状況からの事業再生など武勇伝には事欠かないが、本来は武勇伝などないほうがよい。

企業経営は人間の営みなので、その問題の多くは人災である。人災はやっかいである。同じ問題を繰り返す傾向が強い。なぜなら、人は見たいものしか見ないからである。

では、どうすれば人災を減らせるのだろうか?

経験的には「創造的対話」が一番効く。

創造的対話は、見たいものしか見ないのではなく、見たくないものも直視して、見るべきものを見て行動するための対話である。適切な予防的処置を繰り出すためのプロセスに似ている。

企業経営のルーティンにおいては、取締役会や経営会議といった場が創造的対話の場であるべきだ。

この創造的対話には天気予報のような助けが必要だ。経営は決算のサイクルで回っている。しかし、決算情報の多くは結果である。しかも、事業成果は人の活動によって生み出すものなので結果を出すまで頑張ってしまう。

このような事業努力のサイクルが本来直視すべき現実を先送りして問題を大きくしてしまう。そんな経験を自分自身も繰り返してきた。

そんなこともあり、当社ではCFOラインというファイナンスとアカウンティングを融合したグループ横断の組織を、企業経営における天気予報士のチームにできなかと試行錯誤している。

決算結果という経営状態のスナップショットだけではなく、過去のデータから未来の計画までを駆使し、経営の議論を聞きながら肌感覚を養い、「経営チームは例の計画を達成可能と考えているようですが、俯瞰して見るとかなりのリスクがあり未達になりそうですよ」といったような警報のような予報を実験的に出してもらっている。

精度はともかくとして、予報が手に入るだけでも格段の進歩である。「こんな予報はつかいものにならん」といってはなにも始まらない。まず、「そんな見方があるのか」と素直に受け止め、そして、どうする?である。

経営者みずから予報士を兼ねるのはなかなかむつかしい。それは、数多くの武勇伝が物語っている。血の通った気象予報士ならぬ経営予報士は創造的対話に欠かせない。

「神は内部に宿る」GPT時代のラストワンマイル

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ある日、考えが煮詰まって身近な何人かに相談したいと助けを求めた。雑談のような場であったが、短い時間で煮詰まっていた問題の輪郭が見えた。

本当に解決すべき「問題」を特定することはかなり難しい。

人間の身体でも、どこかに痛みが生じると対処療法的にその痛みを抑えようとしてしまう。しかし、本当の問題は生活習慣や普段の姿勢にあったりする。そんな、本当の問題は痛みを感じている当事者にはなかなかわからない。とにかく、痛みを取りたいと考えて場当たり的になりやすい。

そこで、壁打ちチャットである。振り返ると、GPTをつかうようになってから自分自身との対話速度に変化が生じている。世界中の言語化された知識や経験を自分自身の一部とすることで内的な対話の幅や速度は確実に広がった。

しかし、GPTとのチャットでは経営問題は特定できない。どうやら、GPTでは越えられないラストワンマイルがあるようだ。

気心の知れた仲間たちとは、言語化されていない経験やビジョンを分かち合っている。こういった生きた人間関係から紡がれるインスピレーションこそが問題を創造するのである。

「神は細部に宿る」とは、バウハウス、近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエの言葉だが、GPT時代の経営においては「神は内部に宿る」と直感している。

バックキャスティングでバージョンアップする21世紀の「論語とそろばん」

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バックキャスティングという言葉がいろんなところで使われるようになったと感じてる。未来のビジョンから逆算して現在の行動をつくっていくというものだ。

企業経営現場では、「企業価値というものは成り行きでは高まりませんよ、しっかりとありたい姿をイメージして段取りを踏んでいきましょう。それがバックキャスティングという考え方であり、その考え方から組み立てられるものが戦略です。」といったように使われる言葉である。

戦略と言えば、10年近く前の取締役会で、この会社には戦略がないと叱られ続けた時期があった。将来ありたい姿や、その実現に向けた段取りは進めているつもりであったので戦略がないと言われても、正直なにを言われているのかわからなかった。

その後、機関投資家や社外取締役と対話を続けるにつれ、共通言語であるファイナンス語でストーリーや段取りを語っていないことがそのように言われていたことの理由の一つであると自分なりに理解して、将来の姿をファイナンス視点から具体化することで戦略の会話が少しできるようになってきた。

経営は、渋沢栄一の言うところの「論語とそろばん」を磨くことである。論語とは会社の人格をつくるものであり、そろばんはその人格で生み出す財務成果である。会社の人格がちゃんと社会に役立つものとなっているかはこの財務パフォーマンスで評価される。

その財務パフォーマンスという評価軸が財務会計のような結果指標中心ではなく、ファイナンスという未来の可能性までを取り込んだダイナミックな物差しに変わったということに多くの経営者がなかなか認知を変えられなかったが、ようやく大きな認知転換が進み始めたように感じている。

明治維新や昭和の敗戦でも、それまでの価値観を一新して社会を変化させてきた国である。経営のモノサシが変わったことに気が付けば変化は速いのではないかと、漠然とであるがそんな変化の前触れを感じる。

それだけに、論語側のアップデートがとても気になっている。ファイナンス思考のバックキャスティングに偏ると、あらゆる判断がその結果をだすための手段になってしまうからだ。このアプローチはある意味間違ってはいないのだが、PE(プライベート・エクイティ:事業再生に卓越した経営力を持つファンド)のようにどこかで利益確定することができる経営と異なり、事業経営に利益確定はない。

ゆえに、長期にわたり事業にかかわる人たちが価値創造に自ら取り組みたくなるようなテーマや環境をかなり力を入れて整えなければいずれ立ち行かなくなるだろう。そういった場合は思い切った経営改革を行うためにPEなどの力を借りることも選択の一つではあるが、最初からその前提で経営を行う会社が増えると会社という生き物の家畜化が進み、個々の企業の野性味のような本来の活力が次第に薄れ、社会全体の衰退につながるような気がする。

会計からファイナンスへとそろばんのモノサシが変わった。このモノサシはかなりのパワーを秘めている。それだけに、この道具を使いこなすための論語、つまり会社の人格が問われるなと考えている。

人的資本やらPBRやら企業価値にまつわるいろんなテーマは尽きないが、シンプルにとらえるために新たな論語とそろばんとしてとらえて、それぞれのバージョンアップを進めていきたい。

イタイ経験から得られる学びの醍醐味:私たちはどう学んでいるのか

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「私たちはどう学んでいるのか」(鈴木宏昭)を読んだ。

私はどこかでいつも自分を疑っている。言い換えると、まともな判断ができているのかつねに自信がない。というのも、子供のころから自分の思い込みが事実と異なることで起こるイタイ思いを幾度となく経験してきたからだ。

いろんなイタイ経験を重ねるにつれ、少しは現実を理解できるようになっかたと言えば心もとない。しかし、ものごとの見方についてはずいぶんと変わってきた。知識が増えたと言うよりは、認知視点の変化である。

例えば、経営においては会社を商品として認知したのもその一つである。これはかなりの経験量を要した。会社は私物ではなく社会の「公器」であるべきだとする点は若いころから変わっていないのだが、かつては公器を国家や自治体のような社会に近いもののように考えていた。

しかし、海外企業との事業や資本提携がなかなか進まないイタイ経験を通して企業価値というものが世界共通の会社の評価であることを体感し、海外の経営者や投資家が言っていることが理解できないというイタイ経験を通して、今では持続的に企業価値を高めることこそ現代の公器の役割と身体的に理解している。

正直なところ、ガバナンスコードや教科書からの知識だけでは、それが本当に良いことだと心から信じて行動できるようにはならなかっただろう。実際のイタイ経験とつながって一気に認知のレベルが転化した。一種の悟りである。

では、なぜそんなイタイ経験ができてきたのかと言えば、創業の初志のおかげである。世界に通用するソフトウエア会社をつくるというビジョンの実現を通して100年企業という個人では成しえない持続的な成長企業をつくるという初志が経験機会を次々に生み出してくれている。

そんな自分の認知の変化の背景のようなものを本書を読みながら考えることができた。人の認知的変化を促す「創発する組織」へのヒントが詰まっている。

続けたいことは何か、がはっきりすると行動が変わるという話

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ゆっくり長く走るというトレーニングを夕方から始めるとあっというまに暗くなる季節だが、空の開けたコースだとマジックアワーが楽しめる。

ほんの数年前であれば普通に走れた距離でも少々しんどくなってきた。そんな身体の変化を知ることは嬉しくはないが、面白くはある。

その時々でできることを発見していく面白さである。トレーニングの仕方はもちろん、メンテナンス、身体の使い方の工夫など身体そのものへの工夫や発見があれば、ターゲットとするレースでの目標変更、さらにはレースそのものの変更もある。

この面白さはできるだけ「走る」ことを続けたい。という思いから生じている。

こんな、なにかを続けたい、続いてほしいという思いを広げていくと、共同体や社会の持続性(サステナビリティ)という話につながる。

続いてほしいことが何であるかが見えてくると、日々の行動に変化が生まれ面白くなる。それが、サステナビリティとの向き合い方である。

などと、えらそうなことを考えながら、ふらふらになりながら走った。笑

同じテーマで異なる世代の著者の本を読んだら面白かった

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12月24日のブログで触れた『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗)にインスパイアされ、人間の知性に世代的多様性から触れてみようと気になる本を何冊か読んだ。

一つは、外山滋比古さんの『自然知能』。「思考の整理学」が有名だが、「老いの整理学」も印象深い。なんとなく自分の長年のコンプレックスのようなものを洗い流してくれた。

二冊目は『近代美学入門』(井奥陽子)。「わかっているんだけど言葉にできないもの」を言語化する「美学」というものに触れてみようと読んだ。まだまだ知らんことだらけだと好奇心が刺激された。

三冊目が、『ことば、身体、学び』(為末大・今井むつみ)である。過去に触れた『熟達論』と『言語の本質』、両著者、まさかのうれしい共著である。AI時代における人の成長という問題意識に刺さった。

いずれもとても読みやすい本なのだが、世代も専門性も異なる著者による本を無理やり同じテーマ性をもって読んだことで不思議な読後感に陥った。経験を積むことによる人間のものの見方の変化と、そこから得られるインスピレーションの違いへの面白さである。

社会の持続性にとって、ダイバーシティの中でも世代間ダイバーシティが本丸と個人的には考えている。それぞれの世代の知性を活かせる社会とはどんな姿なのだろう。

う~ん、わからん、ここから先は対話だな!

富士登山競争で、無理しないことを学んだ2023年

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2023年もいろんな変化があった。生活習慣における一番の変化は「無理をしない」ようになったことである。食事や運動、仕事においてもこれまでのような無理を押し通さず、身体を労わるように生活習慣の微調整を繰り返すようになった。

自分の内面と対話する時間が増え、それを繰り返すうちに精神的な解像度が上がり、ループする不安や焦りのようなものが減ったと感じる。

きっかけは今年の富士登山競争である。毎年出場してきた山頂コースの挑戦権がかかっていたが、ロストした。

走力は昨年より低下していたが、決めた練習メニューはこなした。ゆえに、結果にかかわらずすがすがしく終わって次回からは応援に回ろうと考えていた。実際に、レース中はタイムのことを忘れ楽しんでいた。しかし、制限時間を超えた五合目関門直前に「来年がんばろう」と応援の声を聞いた途端、悔し涙がこぼれてきた。しばらく、なんなんだこの涙は、と抑えられない感情に戸惑いながら走った。走り終えてから、こんな感情が残っていたのかと、とても驚いた。

来年も挑戦したいと言っている本当の自分に気が付いた。

そんなことがあって、続けるために「無理せず、全力」というスタンスに万事を切り替えた。これまでは、無理して全力を出し切れないことが多かった。それでも、気力や若さでなんとかしてきた。(ならなかったことも多々ある)この歳になって続けるために一番重要なことは、無理をしないことだと受け入れた。

その時々の最善のパフォーマンスを出し切るために無理をしない。そんな生活にシフトするにつれ、ハーフマラソンでプライベートベストが出るなど、思いがけないご褒美もあった。

仕事ではいろんな人たちの力を活かすことを強く意識するようになり、来年は教育という新たなチャレンジをスタートすることにした。無理しないことで生まれる時間を活かし、無理せず、全力で健全なチャレンジを続けたい。