
天王洲界隈を走っていたら、競歩をしている人がいた。珍しいなと目を凝らすとポルトガル、エチオピアなどのユニフォームが見えた。世界陸上の選手だ。比較的人が少なく走りやすい練習の穴場をよく見つけたものだと感心していると、その後もイタリー、フランスの選手がジョグをしていた。普段のランの中にも世界陸上が溶け込んでいる。
それにしても、陸上選手にとっても東京まだまだ暑い。もし、34年後に東京で世界陸上が開催されるなら、全館空調スタジアムか、冬開催か、それにしても止まらない温暖化は日常生活の場としての危機さえ感じる。原因には諸説あるが、経済発展と温暖化の関係は無視できない。経済至上主義が世界に広がってしまい、ついに自然が人間の活動を受容しきれない閾値を超えてしまったようだ。
経済を担う一人として、経済の成長追求は社会の持続性によってのみ正当化できると考えている。しかし、現実の経済活動はそうではない。ESG(環境・社会・統治)投資のように社会の持続性を重視した事業活動を支える投資も、リターンが上がらなければ下火になる。なによりも儲かるビジネスが社会持続性と一致しない限り、経済成長と社会持続性は両立しない。この問題解決のための経営のあり方こそが、私自身のテーマである。
NHKの「映像の世紀バタフライエフェクト、高度成長 やがて悲しき奇跡かな」の中で語られていた近代史家、色川大吉の言葉が(思想的立場はさておき)心に刺さった。1996年朝日新聞掲載の水俣病に関する行である。
「水俣病は、日本が高度成長をなしとげ、国民が豊かになった代償として起こったものではない。順序は逆である。このような惨たんたる犠牲を平然と見過ごし利益追求を優先させた社会の体質があったから高度成長ができたのである」
当時とは社会の体質も大きく変化してきているが、犠牲は形を変えているだけで利益追求を優先している点に変わりはない。
日本は公害を減らし、環境を整え、高度成長期の負の側面をかなり修正してきた。相対的ではあるが、世界中の人から住みやすいと評価される国になった。では、私たちの経済活動の犠牲はどこに行っているのだろうか?もはや、一企業、一国の範疇を超えて、止まらない温暖化もその一つだろう。
色川の言葉を借りるなら、「惨たんたる犠牲」を決して看過しないことを最優先として、利益追求を行う。そんな経営の徹底が未来をつくる。次の世界陸上東京でも多くの人が平和に楽しめるような社会につなげたいものである。
MAKE TOMORROW!





