『「こころ」はいかにして生まれるのか(櫻井武)』を読んだ。再読である。渡米に際して、オレキシンという覚醒を維持する物質を抑制する睡眠薬を処方してもらった。そのオレキシンを含むさまざまな神経伝達物質への言及があり、機内の読書用にと手に取った。
本題は「こころ」である。しかし、「こころ」は抽象的な概念であって、科学的に明確な定義はなされていないそうだ。つまり、科学で取り扱う対象ではないという。
その「こころ」を科学してみた。というものだ。さすが、ブルーバックスである。
「こころ」という人間の精神活動を科学的に読み解くと、普段、自らがコントロールしているかのように思っている「こころ」というものが、無意識によって織りなされているということに気づく。
無意識といっているのは、言語化されていない身体的感覚のことである。すべての起点がここにある。ということだ。
漠然とした不安を言語化すると心が落ち着くことがある。これは、一種、「こころ」を科学する行為である。言語化されていない感覚の因果関係を言語化することで「こころ」の暴走をいなすことが出来る。
一度言語化できると、言語をつかって「こころ」を整えることも出来る。再現性が生まれる。昔、写経をやっても「こころ」が落ち着かないとやめてしまったことがあったが、写経する言葉の意味を理解し、その言葉による「こころ」へのフィードバックが出来ていなかったからだろう。実際に、自分なりに腹落ちした言葉を書にすると、「こころ」が整う。
一方で、写経や座禅でこころが整う人も少なくない。なぜか?それが、身体的アプローチによるものだろうことが、走るようになってなんとなくわかるようになった。自分にとって写経でも座禅でもできなかった「こころ」のコントロール(と勘違いしていた)が、走ることで少しできるようになったからだ。
座禅のプロセスは、調身、調息そして調心である。姿勢を整え、呼吸を整え、「こころ」を整えるというものだが、走ることでやっていることはまさにこの三つである。そして、順番が重要、まず、調身なのである。
人生を振り返って、健康第一と言っておきながら、このあたりまえをまったく重視してこなかった。若いうちは無理が効いたこともあるだろう。また、人間の特性である、想像力や他者への共感という力が強すぎると身体的な影響を軽視する傾向があるように思う。
「こころ」が不調な時は、「こころ」からではなく、「からだ」から整える。書にするなら「調身養気」というところだろうか。
話は変わるが、先日、一橋大学のHFLPというリーダーシッププログラムの十周年記念シンポジウムに参加してきた。印象的だったのは、経営者の方々の組織や人に対する思いや情熱の強さである。その行動は組織における調身にあたる。
「調身養気」は経営においても同様に取り組んでいきたい。