今日は東京マラソン2024。
天候にも恵まれ、2017年のパーソナルベスト(PB)を3分更新した。
もとのPBがそれほどでもないとはいえ、58歳でPBを更新できたのは驚きだ。
無理せず全力というスタンスが効いている。
しかしながら、来年はもっと、などという気にはならない。
いろんな工夫のご褒美という程度で満足、満足。
今日は東京マラソン2024。
天候にも恵まれ、2017年のパーソナルベスト(PB)を3分更新した。
もとのPBがそれほどでもないとはいえ、58歳でPBを更新できたのは驚きだ。
無理せず全力というスタンスが効いている。
しかしながら、来年はもっと、などという気にはならない。
いろんな工夫のご褒美という程度で満足、満足。
2024年2月22日、ついに日経平均が最高値を記録した。
1989年12月29日以来、34年ぶりの高値更新である。平均株価を構成する銘柄や株価の評価指標といった質が全く異なるものなので参考値程度に見ておけばよいものではあるが、1990年に社会人になったものとしては感慨深い。
この30年間、日本はグローバル経済の中で実質的な鎖国を行っていたようなものである。バブルの調整とそこそこ大きな国内市場を背景にしたデフレ経済により、世界的な通貨インフレから取り残されつつも、国内経済自体は比較的安定していた。
ところが、2013年以降の円安に伴い一挙に海外資産と価値ギャップが広がり、海外投資筋は日本の不動産資産等を買い始めた。それに、アメリカ中心の世界秩序が弱まり、地政学に変化が起きたことで、ジャパンパッシングしていたマネーが日本の証券市場にも流れ込んできた。
企業経営においては、株価というものが無視できなくなった。株価は経営者が管理できるものではない。などどいっていられた時代ではなくなった。会社を商品と捉え、販売希望価格としての企業価値をしっかり管理し、市場価格である株価に対する責任をもつ時代となった。
約30年企業経営の変遷を見てきたものにとって、今回の最高値更新は、日本企業が本格的な「企業価値経営の時代」に突入した象徴として映っている。
東京マラソンまであと二週間。今年はだいぶ練習方法を変えたなぁ。練習レースも入れず、週末にゆっくり長く走り続けるLSD(Long Slow Distance)をメインにした。今週末は両日とも仕事だったが、なんとか予定していた練習ができた。おかげで、心身のバランスは悪くない。今日で皇居周回LSD練習も終わり。あとは、体調を整えるだけ。本番が楽しみだ。
先週関東甲信地方に大雪警報が発出された。首都高をはじめ、各種交通機関などで予防的通行止めなどの処置がとられた。
幸い大事は発生しなかったようだが、2018年1月の大雪で発生した山手トンネルの大渋滞の経験を生かした予防処置と聞いている。
一見大げさに見える予防処置であるが、万が一問題が発生した事後対応と比べると格段に負担が小さい。
企業経営も同様である。
危機に瀕した状況からの事業再生など武勇伝には事欠かないが、本来は武勇伝などないほうがよい。
企業経営は人間の営みなので、その問題の多くは人災である。人災はやっかいである。同じ問題を繰り返す傾向が強い。なぜなら、人は見たいものしか見ないからである。
では、どうすれば人災を減らせるのだろうか?
経験的には「創造的対話」が一番効く。
創造的対話は、見たいものしか見ないのではなく、見たくないものも直視して、見るべきものを見て行動するための対話である。適切な予防的処置を繰り出すためのプロセスに似ている。
企業経営のルーティンにおいては、取締役会や経営会議といった場が創造的対話の場であるべきだ。
この創造的対話には天気予報のような助けが必要だ。経営は決算のサイクルで回っている。しかし、決算情報の多くは結果である。しかも、事業成果は人の活動によって生み出すものなので結果を出すまで頑張ってしまう。
このような事業努力のサイクルが本来直視すべき現実を先送りして問題を大きくしてしまう。そんな経験を自分自身も繰り返してきた。
そんなこともあり、当社ではCFOラインというファイナンスとアカウンティングを融合したグループ横断の組織を、企業経営における天気予報士のチームにできなかと試行錯誤している。
決算結果という経営状態のスナップショットだけではなく、過去のデータから未来の計画までを駆使し、経営の議論を聞きながら肌感覚を養い、「経営チームは例の計画を達成可能と考えているようですが、俯瞰して見るとかなりのリスクがあり未達になりそうですよ」といったような警報のような予報を実験的に出してもらっている。
精度はともかくとして、予報が手に入るだけでも格段の進歩である。「こんな予報はつかいものにならん」といってはなにも始まらない。まず、「そんな見方があるのか」と素直に受け止め、そして、どうする?である。
経営者みずから予報士を兼ねるのはなかなかむつかしい。それは、数多くの武勇伝が物語っている。血の通った気象予報士ならぬ経営予報士は創造的対話に欠かせない。
ある日、考えが煮詰まって身近な何人かに相談したいと助けを求めた。雑談のような場であったが、短い時間で煮詰まっていた問題の輪郭が見えた。
本当に解決すべき「問題」を特定することはかなり難しい。
人間の身体でも、どこかに痛みが生じると対処療法的にその痛みを抑えようとしてしまう。しかし、本当の問題は生活習慣や普段の姿勢にあったりする。そんな、本当の問題は痛みを感じている当事者にはなかなかわからない。とにかく、痛みを取りたいと考えて場当たり的になりやすい。
そこで、壁打ちチャットである。振り返ると、GPTをつかうようになってから自分自身との対話速度に変化が生じている。世界中の言語化された知識や経験を自分自身の一部とすることで内的な対話の幅や速度は確実に広がった。
しかし、GPTとのチャットでは経営問題は特定できない。どうやら、GPTでは越えられないラストワンマイルがあるようだ。
気心の知れた仲間たちとは、言語化されていない経験やビジョンを分かち合っている。こういった生きた人間関係から紡がれるインスピレーションこそが問題を創造するのである。
「神は細部に宿る」とは、バウハウス、近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエの言葉だが、GPT時代の経営においては「神は内部に宿る」と直感している。
バックキャスティングという言葉がいろんなところで使われるようになったと感じてる。未来のビジョンから逆算して現在の行動をつくっていくというものだ。
企業経営現場では、「企業価値というものは成り行きでは高まりませんよ、しっかりとありたい姿をイメージして段取りを踏んでいきましょう。それがバックキャスティングという考え方であり、その考え方から組み立てられるものが戦略です。」といったように使われる言葉である。
戦略と言えば、10年近く前の取締役会で、この会社には戦略がないと叱られ続けた時期があった。将来ありたい姿や、その実現に向けた段取りは進めているつもりであったので戦略がないと言われても、正直なにを言われているのかわからなかった。
その後、機関投資家や社外取締役と対話を続けるにつれ、共通言語であるファイナンス語でストーリーや段取りを語っていないことがそのように言われていたことの理由の一つであると自分なりに理解して、将来の姿をファイナンス視点から具体化することで戦略の会話が少しできるようになってきた。
経営は、渋沢栄一の言うところの「論語とそろばん」を磨くことである。論語とは会社の人格をつくるものであり、そろばんはその人格で生み出す財務成果である。会社の人格がちゃんと社会に役立つものとなっているかはこの財務パフォーマンスで評価される。
その財務パフォーマンスという評価軸が財務会計のような結果指標中心ではなく、ファイナンスという未来の可能性までを取り込んだダイナミックな物差しに変わったということに多くの経営者がなかなか認知を変えられなかったが、ようやく大きな認知転換が進み始めたように感じている。
明治維新や昭和の敗戦でも、それまでの価値観を一新して社会を変化させてきた国である。経営のモノサシが変わったことに気が付けば変化は速いのではないかと、漠然とであるがそんな変化の前触れを感じる。
それだけに、論語側のアップデートがとても気になっている。ファイナンス思考のバックキャスティングに偏ると、あらゆる判断がその結果をだすための手段になってしまうからだ。このアプローチはある意味間違ってはいないのだが、PE(プライベート・エクイティ:事業再生に卓越した経営力を持つファンド)のようにどこかで利益確定することができる経営と異なり、事業経営に利益確定はない。
ゆえに、長期にわたり事業にかかわる人たちが価値創造に自ら取り組みたくなるようなテーマや環境をかなり力を入れて整えなければいずれ立ち行かなくなるだろう。そういった場合は思い切った経営改革を行うためにPEなどの力を借りることも選択の一つではあるが、最初からその前提で経営を行う会社が増えると会社という生き物の家畜化が進み、個々の企業の野性味のような本来の活力が次第に薄れ、社会全体の衰退につながるような気がする。
会計からファイナンスへとそろばんのモノサシが変わった。このモノサシはかなりのパワーを秘めている。それだけに、この道具を使いこなすための論語、つまり会社の人格が問われるなと考えている。
人的資本やらPBRやら企業価値にまつわるいろんなテーマは尽きないが、シンプルにとらえるために新たな論語とそろばんとしてとらえて、それぞれのバージョンアップを進めていきたい。
「私たちはどう学んでいるのか」(鈴木宏昭)を読んだ。
私はどこかでいつも自分を疑っている。言い換えると、まともな判断ができているのかつねに自信がない。というのも、子供のころから自分の思い込みが事実と異なることで起こるイタイ思いを幾度となく経験してきたからだ。
いろんなイタイ経験を重ねるにつれ、少しは現実を理解できるようになっかたと言えば心もとない。しかし、ものごとの見方についてはずいぶんと変わってきた。知識が増えたと言うよりは、認知視点の変化である。
例えば、経営においては会社を商品として認知したのもその一つである。これはかなりの経験量を要した。会社は私物ではなく社会の「公器」であるべきだとする点は若いころから変わっていないのだが、かつては公器を国家や自治体のような社会に近いもののように考えていた。
しかし、海外企業との事業や資本提携がなかなか進まないイタイ経験を通して企業価値というものが世界共通の会社の評価であることを体感し、海外の経営者や投資家が言っていることが理解できないというイタイ経験を通して、今では持続的に企業価値を高めることこそ現代の公器の役割と身体的に理解している。
正直なところ、ガバナンスコードや教科書からの知識だけでは、それが本当に良いことだと心から信じて行動できるようにはならなかっただろう。実際のイタイ経験とつながって一気に認知のレベルが転化した。一種の悟りである。
では、なぜそんなイタイ経験ができてきたのかと言えば、創業の初志のおかげである。世界に通用するソフトウエア会社をつくるというビジョンの実現を通して100年企業という個人では成しえない持続的な成長企業をつくるという初志が経験機会を次々に生み出してくれている。
そんな自分の認知の変化の背景のようなものを本書を読みながら考えることができた。人の認知的変化を促す「創発する組織」へのヒントが詰まっている。