先週に続いて、目黒川パトロールラン。早朝にも拘わらず、大きなカメラを抱えた人やら、チームランの人たちなどで賑わっていた。満開である。
毎年やってくる当たり前の景色であるが、今年も満開の桜を走りながら楽しむことが出来ることに、刹那の貴重さや大切さを思う。自然と、身体の隅々までを活かそうと踏み出す一歩いっぽさえ、丁寧になる。
AIが爆速で進化している。次から次へと人間の知性を凌駕していく状況に触れつつ、人間との根本的な違いは、生命としての寿命に尽きると考えるようになった。
身体的感覚においても、進化するセンサー技術との融合や、人や動物を模したロボット、自動運転などを通して学習していくのだろう。
膨大な情報を処理し、学習し続けるAIが、これまでの人間社会におけるインテリジェンスの意味や価値を根本から覆すまでにはそれほど時間がかからないかもしれない。
20世紀は戦争の時代でもあった。世界という単位で急速に発展した道具を駆使して人間同士が争い、そこで起きた不幸から学習して現在の世界秩序が、不完全かつ脆弱ながらも生まれ、守ろうという努力がそれなりに行われてきた。
21世紀に至り、その学習効果が少し薄れてきているような気がする。リアルに戦禍を経験した人たちがどんどん少なくなってきていることもその理由の一つかもしれない。人間には寿命という限界がある。
その寿命というものが無いAIが、世界秩序に影響力を持ち始めたらどのような社会になるのだろうか。
すでに、情報の作成や指向性をもったヒトへの情報供給にはかなりの影響を与えているが、人間社会の方向性はどちらかと言えば、分断とバイアスが強くなる危険な方向に向かっている。
人間社会の進歩は、死というものに向き合うことから、自分がいなくなった先のことまで考える人たちによって、時に理想主義をいわれながらも、艱難辛苦を乗り越えつつ、様々な差別やダイバーシティを包摂する方向で、前進してきた。
時に非合理的とも映るその社会的な試行錯誤は、AI的にはバカと映るかもしれない。しかし、それこそが人間の知性なのではないだろうか。
2001年宇宙の旅のAI、HAL9000が一人生き残った乗組員デイブによって機能停止させられる場面では、人間の死に対する恐怖感のような描写があったが、その後の続編で機能回復がなされる。人間にとっては、ただ寝かしつけられただけにすぎない。
完全に自我が消滅する人間の死は、AIでは決して到達しえない、人類の知性の根源だ。そこから生まれる様々な思想や行動こそ、生きる楽しさそのものである。
AIの時代こそ、どこまでも「青臭く」生きよう!
いくつかの出来事が重なり、そんなことを考えながらの目黒川ランだった。