地元の古河を少し走った。中学までを過ごした街は、どこを走っても個人遺産である。(笑)古い城下町の名残は入り組んだ道にある。
そんな街並みのそこかしこに友達の家があった。建物や景色が変わっても、じんわりと記憶が蘇ってくるので面白い。
中学校の写生大会で定番だった渡良瀬遊水地の水門は今も全く変わらない。それにしても今日は風が強い。カプヌのCMではないが、強風オールバックだ。冬場の上州からっ風は有名だが、下総の古河もなかなかだ。
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話は変わるが、先日、日本コーポレート・ガバナンス・ネットワークの会員向けセミナーで話す機会をいただいた。自分なりの経営観をということで、「令和の実学」というテーマで一席を打った。普段から、会社を公器と考えて経営しているのだが、その背景や、そのために必要なリスキリング体験などを中心に話した。
話を終えてから、理事長の牛島信さんから一言、「公器とはなんぞや?」。禅問答のように受け止めて口をついて出た返答が、「サステナビリティなり」だった。
公器としての是非は、社会のサステナビリティへの貢献によって測定できるということが言いたかったのだが、少々飛躍しすぎていて、聴いている人からすればわかりにくい。なんでそんな答えをしたのか、あとあと、自問自答することになった。
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英語圏と日本語のコミュニケーションスタイルの違いを、ローコンテクストとハイコンテクストで表すことがある。言葉の定義がはっきりして行間を読まない会話と、あいまいで、行間を読む会話の違いである。日本語は具体性に欠ける。あれ、とか、それ、でかなりのことが伝わってしまう。そんな社会の中で生きている。
このハイコンテクストの文化は、言外にあるあらゆることについて同じ感性をもっているという前提に立つ。ゆえに、これだけ言えば、わかるだろう。ということが基本になり、それが高じると、あれだけ言ってもわからんとは、けしからん。そんなことになる。ダイバーシティという、人は全員(脳内も)違う。という前提に立つコミュニケーションスタイルとは真逆のものだ。
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英語圏の社外取締役が経営にかかわるようになったころから、ローコンテキストコミュニケーションに転換することを余儀なくされた。それは、相手の多様性、つまり自分とは違う考えを持っていることを個人単位で容認することであり、伝わらないことをストレスにするより、相手の違いを学ぶ価値のほうが大きいことに気づく機会になった。
コミュニケーションにおけるストレスは、大抵のところ、相手が自分をわかってくれないというところにある。しかし、そもそも人は自分とは違うという前提にたてば、相手を知ることへの興味と、自分を伝えることへの楽しさが生まれる。日本人がローコンテクストコミュニケーションを身に着けることは案外悪くないのである。
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と言っていながら、前段の牛島さんとの問答で、超ハイコンテクストで答えたのは、「公器」という言葉自体が超ハイコンテクストゆえということなのだろう。公器というものをもっとわかりやすくすること。それも日本文化を活かした世界に通用する経営を進めるうえで必要なローコンテクスト力の獲得なのだろう、そんなところで自問自答を終えることにした。